2025.07.01

能登半島地震と向き合う中で。
「人の暮らしを支える」ということ

金沢で2つの営業所の所長を兼務する奥野は、金沢から能登地方まで一帯の工務店・設備店・電気工事店などを対象とした、オフィスや施設、店舗、住宅など水回り全般の資材納入業務を統括している。
2024年1月1日の令和6年能登半島地震の発生時には、被災地での仮設住宅の建設における資材配送などで中心的な役割を担った。未曾有の災害と向き合った日々を過ごした今、何を思うのか。当時の状況やこれからの展望などを語ってもらった。

深刻な被害、崩壊した交通経路の中、
仮設住宅の水回り設備を担う

地震があった当時、僕は富山の高岡サービスセンターに勤務していたのですが、正月休みで家族と金沢にいて。大きな揺れが起こり、慌ててニュースを見ると震源は能登地方。最大震度は7、マグニチュード7.6という大地震で、「えらいことなった」と感じました。
 
営業初日から、災害対応で電話が鳴り止みませんでした。仮設住宅の水回り設備をやってほしい、と。建設を主導していたのは、全国規模のリース会社さま。いわば、仮設住宅のプロ集団です。四国、九州、関西、北海道など全国からさまざまなお客さまが集まり、各所で急ピッチでの工事がスタートしました。
 
当初は金沢周辺の営業所が中心となって動く予定でしたが、金沢〜輪島間の道路の被害が大きく、高速道路も通行止めでルートがなかった。そこで高岡からのルートで納入することになり、高岡に勤務していた僕が中心となって資材の手配を行うことになりました。

僕らの役割は仮設住宅のキッチンやトイレ、風呂、受水槽などの資材をメーカーさまから仕入れ、それを現地で施工しているお客さまのもとに納入すること。納入する資材は、僕らが普段から扱っている塩ビのパイプなど、一般的な商材です。商流自体が複雑だったり特殊だったりしたわけじゃなく、経験したことのないボリュームと、一刻も早く被災者の方々に安心して過ごしていただく場所をつくるという時間との戦いでしたね。地場の企業さまは被災しているから動けないし、そもそも数が圧倒的に少ない。渡辺パイプは全国的なネットワークがあるから、こういった場面で強みを活かすことができたと思います。
 
僕、災害対応って今回が初めてだったんですよ。ただ、前年に受講した社内研修で、上司の方々が阪神淡路大震災での災害対応の話をしてくれてたんです。それを聞いて「万が一のときは、やらなきゃダメだよな」と感じていたところでの出来事だったので、意識は高かった。所長になってからはお客さま先や現場に行くことは減っていましたが、このときは現場と営業所を毎日ひたすら往復していました。
 
対応した範囲は能登、輪島、珠洲など、志賀町以外の能登エリア全域で、最奥の珠洲までは片道3〜4時間。地割れ、崩落によって道路状況は最悪で、渋滞が延々と続いていた。さらに冬だったので、積雪もすごかったんです。道路に亀裂が生じて、階段のような大きな段差ができている箇所もたくさんあったのですが、それが雪で見えづらくなるので、パンクや事故を避けるためにスピードを緩めて走りました。普段の倍の時間がかかることもありましたね。

被災の現実に立ち向かう、
お客さま・メーカーさま・渡辺パイプの結束の力

現地は、ほぼ断水状態でした。能登エリア一帯の水を賄っていたパイプが破損していたんです。被災者だけでなく、工事で滞在するお客さまや僕らのような納入業者にとってもライフラインの確保は困難でした。余震が頻繁に起こる中で、飲食店も営業していないし、トイレもままならない。初めて顔を合わせた業者さんと一緒に寝泊まりして、安全なルートの情報交換をすることもありました。お客さまからも、あんなに感謝されたのは初めてでしたね。「今日もありがとうな!」って、毎日お互いに感謝し合ってました。
 
モノを仕入れる数もすごいので、調達先であるメーカーさまから必要な数が仕入れられないということもありました。けれど逆に、通常よりも発注の締切時間を延長してもらったこともあって。当日出荷分の発注って、通常は13時が締切なんですよ。でもそれを1時間延長して14時まで待ってくれて。より多くのモノを1日でも早く届けられるよう、時には臨時便を出してくれたりと、いろんなメーカーさまにめちゃくちゃ協力していただきましたね。

お客さまやメーカーさまの支えに勇気づけられて、「なんとか助けになりたい」っていう気持ちはとても強かったですね。ただ、崩れた道路や倒壊した建物、土砂崩れが起きている風景……現場に向かう道中で被災の現実を目の当たりにすると、しんどくなってくることもありました。一番怖かったのは、それを何日も繰り返し見てると、次第にそれにも慣れていってしまうんですよね。この光景を異常だと思わなくなっていく自分にゾッとしたのを覚えています。やっぱり、どうしてもナイーブになりますよね。

そんなとき何より心強かったのが、全国から応援に来てくれた渡辺パイプの仲間たちの存在でした。僕らの営業所に、若手を中心に15人ほどが全国から来てくれて。あの応援がなかったら、やり切れなかったと思います。すごかったですよ。「この材料はここへ届けてください」っていう伝票を作って置いておくだけで、まるで長年一緒に働いていたかのようにみんなが動いてくれる。即席のチームなのに以心伝心で、こんなにもスムーズに仕事のバトンを渡し合えるのか、と。渡辺パイプ、すげえなって。めちゃくちゃ感動しましたよ。

トラックのべ10台をフル稼働で往復7時間以上かけて運び終えても、明日は明日でまたとんでもない量がある。だけどみんな「やりましょうよ!」って励まし合って。若手だけじゃなく、社内で有名な配送のスペシャリスト社員が来てくれたりもして、全国の渡辺パイプの社員がワンチームで被災地のために全力で取り組もうとしている、その一体感が心強かった。僕が落ち込んでいるわけにはいかない、被災地の助けになりたい、お客さまの仕事に僕らも応えたいって、気合いが入りましたね。
 
その後、一つの山場を超えたかなと感じだのは同年のGW前くらいですかね。そこから夏までに少しずつ落ち着いていった感じでした。手掛けた仮設住宅は1,500軒超。その後も壊れた水道の修繕などを行い、工事は今でも続いています。

大学時代の後悔を繰り返さないために。
絶えず現状を変えていく

僕の実家は滋賀なんですが、北陸に来たのは、子どもの頃からやっていたサッカーを大学でも続けるためでした。学生時代はサッカーに明け暮れて世の中のことを何も知らなくて、就活時期になっても何もやってなかったんです。危機感がなく、夢や目標もなかった。親からは「帰ってこい」と言われてましたね。そんなときに就職課を通じて出会ったのが、今の上司だったんです。

若い頃って、大人のことをどこかナメてたというか、話もロクに聞かなかったんですよね。いろんな人の言葉が耳から耳へ通り過ぎて、何も心に残らなかった。でも渡辺パイプは、説明会のときにその上司や人事の方が休憩時間まで使って、丁寧に話をし尽くしてくれた。それを聞いていて、真摯に働く大人ってめちゃカッコいいなって、感化されて。

大学時代、後悔もあったんですよ。怪我して試合に出られないとか、後輩にレギュラーを取られるとか。上司にはそれを見抜かれて。「大学時代にお前は点を獲れなかったかもしれない。だったら社会に出て点を獲れよ」って言ってくれて。またチャンスをもらえたんだなって感じて、一気に視界が開けたんです。この人みたいなカッコいい大人になりたいっていう、次の目標ができた。入社が決まったときは、すごく嬉しかったですね。
 
入社してからは必死で、悔いのないよう働いてきました。ナンバーワンになりたいとかは思わなかったんですけど、旧態依然とした体制を変えていきたい、良い職場にしたい、って思っていた。ただ当時の所長は複数の営業所を兼任していたので不在が多く、あまり話せなくて、実行に移せなかった。だから「こうしたい」を実現するためには自分が所長にならなきゃと、当時から強く思っていました。別に出世欲はないし、サッカーでもキャプテンをやったことはなくて、リーダーっていうキャラでもなかったんですけどね。

今後も能登の復興に貢献し、
この経験と想いを、次の世代へと受け継いでいく。

震災が起きてからは心身ともに大変だったけど、特別なことをしたわけじゃなく、当たり前のことだと思っていました。みんなもそう思ってたんじゃないかな。渡辺パイプじゃなかったら何もしなかったかもしれないし、気にもしていなかったかもしれない。だけどここで働いている以上は、間違いなく「やらなきゃ」と思っていました。

ライフラインを守るというような責任感は、必ずしも入社した瞬間から持っていなくていいと思う。日々の仕事の中で少しずつ変わっていき、次第に社会の基盤を支えてるという自覚が芽生えてくるはずです。僕自身もそうだったし、この経験を経て「ライフラインをつくる仕事をしているんだ」と、改めて痛感しました。

今回、全国から若手社員が応援に来てくれた。彼らにとって、渡辺パイプの底力を知り、人の暮らしや命を守ることに貢献できたのは大きな財産になったんじゃないかな。この経験とマインドが受け継がれていくことで、それがいつの日か、また誰かを助けることにつながるはずです。

彼らが活躍できる土壌をつくることが、所長としての僕の仕事だと思っています。だから毎日できるだけ営業所にいるようにして、部下たちと話す時間を持てるよう心がけていて。彼らとは、未来の話をすることが多いんですよ。「1年後、3年後、どうなりたい?」って。どんな職場にしたいか、どんな仕事がしたいか、どれくらいの収入が欲しいか……未来を語って、それを実現するために頑張ってほしい。そのために足りないことを僕がサポートして、一緒に営業所を盛り上げていきたいです。みんな渡辺パイプのことが好きで、前向きに働いているから、僕も働いてて楽しいです。 所長になってから、年々その楽しさは増してますね。

能登半島の復興はまだ道半ばです。地元の施工会社さまやメーカーさまも次第に動き始めて、ちょっとずつ前に進んでいる一方で、未だに仮設住宅で暮らしている人も大勢いるし、破損したまま取り残された道路や建物、水道管などもたくさんあります。人々が以前の暮らしを取り戻すには、まだまだ時間がかかるでしょう。これからも引き続き、若い世代と協力して、復興に貢献していきたい。そして、能登で経験したことを伝え、渡辺パイプがこれからも人の暮らしを支える結束力を持ち続けることができるよう、少しでも力になりたいと思っています。